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エンタメ小説家・西式豊の映画感想ブログです

映画『唄う六人の女』の感想

「正直じいさん どこにも いない」

 

注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。

 

いずことも知れぬ森の中に迷い込んだ二人の男を翻弄する、「女」たちのビジュアルイメージが強烈な印象を残す、不条理ホラーである。

 

文明社会から隔絶した環境に潜む「人ならぬ異物」との邂逅というテーマは、フォークロア系怪談・奇譚の一典型ではあるものの、現代を舞台にしながら徹底的に「和」の意匠にこだわった世界観はそれだけで一見の価値がある。そういう意味では、もしかすると国内よりも海外で高く評価される作品かもしれない。

 

若い恋人と同棲している成功した商業写真家の萱島(竹ノ内豊)は、幼児期に疎遠となった実父の訃報に接し、相続した田舎の山を土地開発会社の代理人宇和島山田孝之)に売却する決意をする。現地で契約を終えた二人は、狭隘な山道を駅へと急ぐ途上で交通事故を起こし、気が付いた時には身体を拘束されたうえで、見たこともない山中の集落に連れ去られていた。彼らの目の前にあらわれたのは、壮絶なまでに美しい六人の女。いったい彼女たちの目的はなんなのか? 男二人は生きて再び人の世に戻ることができるのか?

 

実は本作、極めて今日的な社会問題を大きなテーマにしているのだが、その全貌は「六人の女」の正体と不可分になっているので、本稿では触れずにおく。

 

そこに至るまでの展開で言うのであれば、異界に囚われた二人の男を滑稽かつ赤裸々に演じる竹ノ内の飄々たる味わいと山田の剣呑さ以上に、久しぶりに綺麗どころとしてキャスティングされた水川あさみを筆頭に、流石のパフォーマンスで魅せるアオイヤマダ、いつもながら振り幅の激しい萩原みのりといった、魅力的な女優の演じる「六人の女」の描写そのものが見どころといえるだろう。人外のみが醸し出しうるプリミティブなエロス、とでも表現するしかない妖艶さは、香山滋の手になる異郷幻想譚などがお好みであれば、おおいに満足できるはずだ。

 

とはいえ本作、今の時代の物語として見ると、そのよってたつ男女観に、いささか問題を感じなくもない。極端な話、本作に描かれる「六人の女」が自然や生命そのもののメタファーであることは明白なわけだが、なにゆえそれが「女」の表象で描かれなければならなかったのか、という根源的な部分に疑問符がつくのである。

 

本作において、リアルな人間社会に出てくる登場人物は、経済と暴力を駆動輪とした権力構造にガッチリと支配された男性ばかりで、女性はわずかに主人公の年若い恋人(生活面においてはケア要員、精神面においては母親の代理)のみであるという構造からも、その作品世界が極めて男性側に偏った視点に依拠していることは認めざるを得ないはずだ。極端な話、異界で出会った存在が「六人の女」ではなく「六人の男」だったならば、主人公の萱島がそこまでの執着を見せたかどうかはいたって怪しいところだろう。

 

逆の見方をすれば、本作はその底辺に男性原理を内包しているからこそ、家父長制を前提とした物語祖型である「運命の女」や「憑かれた男」というモチーフと響き合うことで、異郷訪問譚という民話的な側面をより強固なものとして提示することに成功したともいえよう。主人公が異界の側に立つことを選ぶのは、そちらの世界の理を心底から理解したからではなく、あくまでも「女」という表象が内包する性的あるいは母性的な側面に惹かれたからに過ぎない。それゆえに彼は、避けがたい必然として「憑かれた男」がたどる物語の典型的な終局へと流れ着くことになるのだ。

 

一方で本作は、人類が護り尊ぶべき自然や生命を女性という表象に仮託したことによって、その内包する社会的問題提起に対しても、科学的思考から導き出された必然というよりは、未知なる存在への憧憬とも言うべきふんわりした「気分」に過ぎないのではないか、という批判を自らにつきつける逆転をも生み出している。

 

現代社会に「人間」という種として生存しているという時点で、もはや昔話の正直じいさんのように、世界に対する純粋無垢な保護者としての立ち位置へと戻ることなどできないのではないか?

その結論へと観客を導くことこそ、本作が『唄う六人の〈女〉』であったことの、意味であり必然性だったように思えてならない。

 

作品情報

タイトル:唄う六人の女 

2023年製作/112分/PG12/日本
劇場公開日:2023年10月27日

監督:石橋義正

脚本:石橋義正 大谷洋介

撮影:高橋祐太

照明:友田直孝

録音:島津未来介

音楽:加藤賢二 坂本秀一

出演:竹野内豊山田孝之水川あさみ(他)