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エンタメ小説家・西式豊の映画感想ブログです

2023年劇場鑑賞映画ベスト10

2023年の劇場鑑賞本数は133本。ほぼコロナ前の水準まで回復しました。

正直なところ「これは凄い!」と夢中になるような作品を欠いた、低調な印象の一年でした。

ランキングは例によって、良い悪いではなく、どれだけ「自分のなかに落としどころがあったか」という極めて私的な基準になっています。

 

10位『ゴジラ−1.0』

間違いなく歴代シリーズで一、二を争う大傑作。エピソードゼロでもマルチバースでもなく、精神性としては初代の延長戦にあるのも良い。

 

9位『福田村事件』

よくぞ撮ったり。きちんと大正時代の話に見えるのが良い。某脚本家の手癖である(しかも本編の主題とは関係のない)妙に古臭い性意識がなければもっと良かったのに。

 

8位『リバー、流れないでよ』

2分間という超短スパンのタイムリープという新奇なアイディアの部分よりも、普遍的な人情喜劇として物語を落としていく手練れの技に感服した。

 

7位『ジョン・ウィック コンセクエンス』

既存のシリーズと一線画した面白さ。パリ編の常軌を逸した展開には開いた口が塞がらなかった。格闘の段取りがしっかりわかるアクション演出にも好印象。

 

6位『アイスクリーム・フィーバー』

90~00年代あたりのスカした邦画のテイストを令和の世に完全再現。荒ぶらない芝居の吉岡里帆としては会心の出来かと。モトーラ世里奈もキャリア最高に正しい使われ方。

 

5位『わたしの幸せな結婚』

今年一番のダークホースと呼んでも過言ではないはず。和風伝奇アクションという失敗しがちなネタを、ロケや小道具を駆使して支えた裏方のがんばりが見事に結実。

 

4位『緑のざわめき』

この年、一番びっくりした映画。およそ定型の物語には収まらない収拾のつかなさが、忘れがたい印象を残す。夏都愛未監督には、どうかこのまま己の道を究めて欲しい。

 

3位『まなみ100%』

撮ってる監督が、撮られている事象の意味を(本当は絶対にそんなことはないはずだけど)一番なんにもわかっていないように見えるというメタ性が作品の核になっている。

 

2位『月』

キャストもスタッフも観客も非当事者であることを前提に、「当事者にはなりえない」という事実にどう向き合うかを、ギリギリまで考え抜いた誠実な映画だと思う。

 

1位『シャドウ・プレイ 完全版』

すべてにおいて完璧と断言できる得難い映画体験。

 

映画『サタデー・フィクション』の感想

ロウ・イエ印のパルプ・フィクション

 

注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。

 

これは多分に自分の勉強不足からきている事実誤認の類だと思うのだが、長い間ロウ・イエは政治的な映画監督なのだと思っていた。なにしろその存在をはじめて意識したのが『天安門、恋人たち』である。中国政府からにらまれて五年間の製作禁止処分をくらったというオマケ付きだ。フランス・香港合作と言う抜け道で検閲を逃れて製作された次なる『スプリング・フィーバー』のテーマは同性愛。これまた中国社会では禁忌とされている題材となれば、確信犯的に当局に中指つきつけていく創作スタイルなのだと理解するのも無理からぬところだろう。

 

その認識が一変したのが前作『シャドウプレイ』。不動産バブルに踊る中国の地方都市で発生したひとつの事件を起点として、急速に近代化を推し進めた中国現代史を活写するという内容は、確かに社会派としての視点を包含してはいるものの、錯綜する色と欲が織りなす犯罪絵巻という本筋は、スリラー/ノワールのお作法を完璧に踏襲したすこぶる娯楽性の高いもので、いよいよロウ・イエもエンタメに舵を切ったのかと感じ入ったものだった。そこにきての本作である。

 

1941年12月。太平洋戦争開戦前夜。魔都・上海。風雲急を告げる国際情勢を反映して、各国のスパイがしのぎを削って暗躍する状況下に、国際的な人気を誇る大女優ユー・ジン(コン・リー)がやってくる。表向きはかつての恋人(マーク・チャオ)が演出を務める舞台に出演するためとの理由だが、彼女には連合国側の凄腕スパイという裏の顔があった。今回のミッションは、日本の海軍少佐古谷三郎オダギリジョー)から、某重大情報を奪取すること。かくして、敵味方が複雑に入り乱れる虚々実々の諜報戦の火ぶたが切られた。

 

上記の粗筋からも明白なとおり、近代史異聞的な物語の建てつけだけに、当時の中国内における各勢力の利害関係が頭に入っていないと少なからず理解が及ばない部分があることは事実。そういう意味で、鑑賞前には公式サイトの人物相関図で予習しておくことを推奨するが、本作は決して難解な作品ではない。

 

いやいや、時系列は飛びまくるし、作中作であるお芝居の内容は本筋に浸食しまくるし、なにがなんだかわからないでしょう? というツッコミも入ってきそうだが、そこらへんはわからないまま見てもまったく差し支えない。というよりも、自分のよって立つ場所が虚構なのか現実なのか判然としなくなっているという状況自体が、女優にしてスパイという(まさに、二重三重の意味で虚構を生きざるをえない)ヒロインの偽らざる認識なのだとすれば、この「わからなさ」こそが、観客シンクロ率を高めて作中世界の臨場感をマックスにまで高める最適解のアプローチだと受け取るべきだろう。

 

スパイというのは不思議なもので、その存在は高度な政治上の駆け引き以外の何物でもないにも関わらず、ひとたび虚構の世界に身を移せば、ロマンティックでスリリングな物語の駆動力として機能しはじめる。本作におけるスパイにも、単なる歴史的事実以上の政治的背景はまったく存在しない。なにしろ大女優にして凄腕スパイなどという設定の時点で、完全にフィクションに振り切っていることは明らかだ。ようするに本作でロウ・イエが目指しているのは、純粋に映画表現として追及可能な娯楽性であり、いうなれば一種のプログラム・ピクチャーであるようにさえ感じられるのだ。

 

実は今回、本作のパンフレットを読んではじめて知ったのだが、もともとロウ・イエの映像作家としてのキャリアはアニメーターからスタートしたもので、『花の子ルンルン』や『銀河鉄道999』を見てその技術を学んだと明言している。

となればむしろ、ロウ・イエを政治の人として見るのは誤りであり、映像を通してエンターテインメントを提供するという側面も、動かしがたいルーツとして存在していると考えても良いはずだ。

 

ちなみにタイトルである『サタデー・フィクション』とは、1920年代の中国で人気を誇った「鴛鴦蝴蝶派」と呼ばれる娯楽小説作家たちの中心的な活躍の場であった雑誌「礼拝六」からとられたものだそうである。大時代的なロマンスと並んで、犯罪・探偵小説などをも掲載した同誌の存在を思えば、本作の本質は創作家の心中に蓄積された娯楽的記憶の再構築にあり、観客もまた、それを無心に享受すればよいのだともいえるだろう。

 

作品情報

タイトル:サタデー・フィクション
原題:蘭心大劇院 Saturday Ficiton
配給:アップリンク
劇場公開日:2023年11月3日

監督:ロウ・イエ

脚本:マー・インリー

出演:コン・リー/マーク・チャオ/オダギリジョー(他)

映画『ゴジラ-1.0』の感想

「焼野原の二重露光」

 

注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。

 

野村芳太郎の『左ききの狙撃者・東京湾』を観た時に、狙撃事件の現場検証にやってきた刑事たちが、妙に手慣れた調子で狙撃手の姿勢や弾道を口々に分析する様子を見て、どうして日本の警察官がこんなに銃器に詳しいのだろう? と不審に思ったことがあった。

よくよく考えてみれば、昭和三十年代に働き盛りだった彼らは、例外なく戦場に送られて三八式なり九九式なりといった旧帝国陸軍の小銃を担いでいたわけだから、これは不自然どころか当然の描写だったのだ。

 

ことほどさように、社会において大前提として共有されている空気感ほど、えてしてフィクションでは省略されてしまうものであり、後からやってきた観客にとっては、意味不明のままスルーされてしまうというケースも少なくない。

 

1954年公開の元祖『ゴジラ』にもその顕著な一例がある。志村喬演じる山根博士の妻の不在の理由だ。現代の感覚からすれば、なんらかのドラマ的な必要性があり、病死だの事故死だのと理由が説明されてしかるべきところだが、あえて作中で一切言及されないのは、昭和二十九年のリアルタイム的にいうならば、それが戦争のせいであることは誰の目にも明白だったからだろう。

 

本作における最大のギミックである、舞台を一作目以前の時間軸に持ってきたという工夫は、現代における怪獣災害のシミュレーションは『シン・ゴジラ』でやりつくしてしまったという興行的な判断によるものではあろうが、公開から七十年が経過して、すでに社会の共通認識としては機能しなくなったシリーズのルーツと、当時の観客が感じた〈気分〉を補完して、次の世代へと託していくという意味では、これ以上ないほど素晴らしい選択であったことは間違いない。

 

とにもかくにも、終戦直後の東京の惨状を活写したビジュアルイメージが素晴らしい。

通常、映像作品における〈終戦直後〉というのは、ある程度市民生活が安定をみせはじめた昭和22~23年程度を指していることが多いのだが、真の意味での直後たる昭和20年後半、つまりは爆撃によって一面の焼け野原と化したまま、がれきの撤去さえも進まず放置された廃墟の列を、こんなにも鮮烈に再現できたのは、日本最強を誇る白組のVFX技術以上に、丹念な調査に基づいた執念のたまものといえるだろう。

当時の観客たちにとって、ゴジラによる都市破壊はスクリーンの中のミニチュアが壊される情景ではなく、ほんの数年前に自分たちが体験した空襲による地獄絵図を露骨に想起させるものであったという事実を、本作によってはじめて我が事として理解できるようになった若い世代の観客も少なくないはずだ。

 

「初代ゴジラは怖かった」という紋切り型は、単なる映像的なニュアンスの話ではなく、当時の観客にとってそれが、戦争の記憶をそのまま蘇らせるものだったからに他ならない。

一方で「ゴジラは核戦争の脅威を描いたものだ」という視点も良く言われることだが、日本が唯一の被爆国だという以前に、もしも核兵器を使用した第三次世界大戦が勃発したら、ようやく復興をとげつつある自分たちの住む町が、またしても戦時中と同様の瓦礫の山になってしまうという身の丈の恐怖の方が、庶民にとっては何倍も身近で深刻に感じられたはずだ。

 

忘れることの出来ない悲劇的な過去=空襲の記憶。

絶対にあってはならない未来=核兵器によるさらに重篤なその再現。

ゴジラとは、巨大生物による都市破壊という絵空事によって、時間を超えて焼野原に重なる二重の地獄のイメージを具現化したものであり、それゆえに当時の日本人にとっては、深刻な恐怖の対象になりえたのだ。

その事実を21世紀にありありと蘇らせたという一事をとっても、本作がつくられた意義はあるといえよう。

 

巷で物議をかもしている本作のラストも、一見するとドラマとしては蛇足のようにも思えるが、ゴジラの本質を継承していくという側面から考えれば、その意図は明らかだ。

一作目よりも前の時間軸を描いた物語では、焼野原に重なる未来の光景、つまりは核戦争と放射能の恐怖は十分に描くことはできない。

そのことに自覚的な製作者であれば、単なるハッピーエンドで幕を引くことなどできるはずがないのだ。

 

作品情報

タイトル:ゴジラ-1.0 

2023年製作/125分/G/日本
劇場公開日:2023年11月3日

監督:山崎貴

脚本:山崎貴

撮影:柴崎幸三

照明:上田なりゆき

録音:竹内久史

音楽:佐藤直紀 伊福部昭

出演:神木隆之介浜辺美波吉岡秀隆(他)

映画『唄う六人の女』の感想

「正直じいさん どこにも いない」

 

注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。

 

いずことも知れぬ森の中に迷い込んだ二人の男を翻弄する、「女」たちのビジュアルイメージが強烈な印象を残す、不条理ホラーである。

 

文明社会から隔絶した環境に潜む「人ならぬ異物」との邂逅というテーマは、フォークロア系怪談・奇譚の一典型ではあるものの、現代を舞台にしながら徹底的に「和」の意匠にこだわった世界観はそれだけで一見の価値がある。そういう意味では、もしかすると国内よりも海外で高く評価される作品かもしれない。

 

若い恋人と同棲している成功した商業写真家の萱島(竹ノ内豊)は、幼児期に疎遠となった実父の訃報に接し、相続した田舎の山を土地開発会社の代理人宇和島山田孝之)に売却する決意をする。現地で契約を終えた二人は、狭隘な山道を駅へと急ぐ途上で交通事故を起こし、気が付いた時には身体を拘束されたうえで、見たこともない山中の集落に連れ去られていた。彼らの目の前にあらわれたのは、壮絶なまでに美しい六人の女。いったい彼女たちの目的はなんなのか? 男二人は生きて再び人の世に戻ることができるのか?

 

実は本作、極めて今日的な社会問題を大きなテーマにしているのだが、その全貌は「六人の女」の正体と不可分になっているので、本稿では触れずにおく。

 

そこに至るまでの展開で言うのであれば、異界に囚われた二人の男を滑稽かつ赤裸々に演じる竹ノ内の飄々たる味わいと山田の剣呑さ以上に、久しぶりに綺麗どころとしてキャスティングされた水川あさみを筆頭に、流石のパフォーマンスで魅せるアオイヤマダ、いつもながら振り幅の激しい萩原みのりといった、魅力的な女優の演じる「六人の女」の描写そのものが見どころといえるだろう。人外のみが醸し出しうるプリミティブなエロス、とでも表現するしかない妖艶さは、香山滋の手になる異郷幻想譚などがお好みであれば、おおいに満足できるはずだ。

 

とはいえ本作、今の時代の物語として見ると、そのよってたつ男女観に、いささか問題を感じなくもない。極端な話、本作に描かれる「六人の女」が自然や生命そのもののメタファーであることは明白なわけだが、なにゆえそれが「女」の表象で描かれなければならなかったのか、という根源的な部分に疑問符がつくのである。

 

本作において、リアルな人間社会に出てくる登場人物は、経済と暴力を駆動輪とした権力構造にガッチリと支配された男性ばかりで、女性はわずかに主人公の年若い恋人(生活面においてはケア要員、精神面においては母親の代理)のみであるという構造からも、その作品世界が極めて男性側に偏った視点に依拠していることは認めざるを得ないはずだ。極端な話、異界で出会った存在が「六人の女」ではなく「六人の男」だったならば、主人公の萱島がそこまでの執着を見せたかどうかはいたって怪しいところだろう。

 

逆の見方をすれば、本作はその底辺に男性原理を内包しているからこそ、家父長制を前提とした物語祖型である「運命の女」や「憑かれた男」というモチーフと響き合うことで、異郷訪問譚という民話的な側面をより強固なものとして提示することに成功したともいえよう。主人公が異界の側に立つことを選ぶのは、そちらの世界の理を心底から理解したからではなく、あくまでも「女」という表象が内包する性的あるいは母性的な側面に惹かれたからに過ぎない。それゆえに彼は、避けがたい必然として「憑かれた男」がたどる物語の典型的な終局へと流れ着くことになるのだ。

 

一方で本作は、人類が護り尊ぶべき自然や生命を女性という表象に仮託したことによって、その内包する社会的問題提起に対しても、科学的思考から導き出された必然というよりは、未知なる存在への憧憬とも言うべきふんわりした「気分」に過ぎないのではないか、という批判を自らにつきつける逆転をも生み出している。

 

現代社会に「人間」という種として生存しているという時点で、もはや昔話の正直じいさんのように、世界に対する純粋無垢な保護者としての立ち位置へと戻ることなどできないのではないか?

その結論へと観客を導くことこそ、本作が『唄う六人の〈女〉』であったことの、意味であり必然性だったように思えてならない。

 

作品情報

タイトル:唄う六人の女 

2023年製作/112分/PG12/日本
劇場公開日:2023年10月27日

監督:石橋義正

脚本:石橋義正 大谷洋介

撮影:高橋祐太

照明:友田直孝

録音:島津未来介

音楽:加藤賢二 坂本秀一

出演:竹野内豊山田孝之水川あさみ(他)

映画『悪い子バビー』の感想

「地獄の底で健全に生きる方法」

 

注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。

 

 

1993年の世界公開時点で、ヴェネチア映画祭の三部門で賞に輝きながら、なぜか日本では『アブノーマル』とのタイトルでキワモノ的にビデオスルーされただけという作品が、30年の時を経てまさかの劇場公開。その背景には、この手の怪作の(『荒野の千鳥足』とか)ソフト販売戦略には一日の長のあるキングレコードさんの辣腕もあるだろうが、映画好きの心をつかむには十分なフックである。

 

主人公バビーにとって、不潔で暗鬱な地下室は世界のすべてだった。一歩でも外に出たら、猛毒の空気で命を落とす。そんな風に母親から躾られて育ったからだ。中年前期の息子と初期高齢者の母。一方的な支配と隷属を基盤とした二人だけの歪んだ生活は、ある日突然、父と名乗る人物が戻ってきたことから終わりを告げる。我々が済む「社会」へといやおうなく放り出されたバビーは、生まれてはじめて自分の意志で生き、他者との関係性を構築していくことになる。

 

物語劈頭からけっこうな時間をかけて描写される地下室の生活は、あまりの異常性が若干のユーモアを帯びつつも、その本質を考えれば「ザ・地獄絵図」としか言いようのない光景だ。けれども、そこから解放されたバビーが外の世界を遍歴する後半に至っても、事態は一気に好転なんて能天気なことにはならず、さらなる試練の連続が襲いかかってくる。


なにしろ道中でバビーが出会う様々な人たちは、たとえ好意的に接してくれても、基本的には彼のことをアウトサイダーとしか見ていないから、最後の決定的人物との出会いを除けば、どこまでいっても対等な関係が構築されることはないのだ。

 

そのために主人公が置かれた環境は、次から次へと目まぐるしく移り変わり、それに応じて映画自体も、脈絡のないドライブ感で数珠つなぎになったエピソードの連続として構成される。童話のような自由さを感じさせる唐突な展開の数々は、本作が構造的には『ピノッキオ』の本歌取りであることを如実に示すと同時に、どこまでも混沌として無慈悲なこの世界(我々が生きて構成している現実社会)の実情を鮮やかに再現する効果も生み出している。ようするに「世界はクソ」なのだ。

 

だからといって、主人公であるバビーが「聖なる愚者」として社会の矛盾に警鐘を鳴らす、的な紋切り型にはまったくならないところが本作の美点である。なにしろバビーの行動ときたら、そのほとんどが性欲(大きなおっぱい)と食欲(ピザ尊い)という、徹頭徹尾脊髄反射レベルの低次欲求に従っているだけなのだ。物語上は彼を導いていくことになる音楽にしても、ただ単に聞いていて楽しい、心が躍る、といった快感原則に引き寄せられているだけで、集光性の虫が街灯に群がってくるのと大差はない。

 

なによりもここで注目すべきは、世界との接点を構築するよすがとしてバビーの口にする「言葉」が、これまでにどこかで耳にした他者のセリフを、文脈を無視してシチュエーションの類似だけで繰り出しているすぎないという点だ。
地下室の母から、父と名乗る男から、あるいは袖すり合った他者から得た言葉をオウムのように繰り返すことで、なんとか目の前の相手とのコミュニケーションを構築しようとするバビーの姿からは、人間の社会性を構築する要素が「受容→模倣→再生産」というプロセスの繰り返しであるという事実が改めて浮かび上がってくる。

 

けれどもそれは「彼」だけの特殊な行動原理なのだろうか? たとえば作中でバンドのボーカリストが思わせぶりに語る宗教と戦争に関する想いや、パイプオルガニストがさも世界の真実の如く語る神の否定にしたところで、それは本当にその人間のオリジナルな思想なのだろうか? もっともらしく恰好良いことを言っていても、所詮は先人の言葉の受け売りに過ぎないのではないか? 私にはそんな風に感じられてならなかった。

 

意識とは所詮「受容→模倣→再生産」というプロセスによって生成された一種のシステムに過ぎないのではないか? バビーという極端にインプット例の少ない人物だからこそ明らかになったその冷徹な気づきを、社会全体にまで拡大適用させてしまったところにこそ、本作の妙味があると感じた所以である。

 

世界はクソ。人はシステム。そこには美も調和も尊厳もない。
だからこそ、平凡で絵にかいたような瞬間にささやかな幸福を満喫したっていいじゃないか。そんな風に開き直るラストが、温かく親密な感情をも想起させるのだ。

 

作品情報

タイトル:悪い子バビー 

原題:Bad Boy Bubby

1993年製作/114分/R18+/オーストラリア・イタリア合作
劇場公開日:2023年10月20日

監督:ロルフ・デ・ヒーア

脚本:ロルフ・デ・ヒーア

撮影:イアン・ジョーンズ

音楽:グレアム・ターディフ

出演:ニコラス・ホープ/クレア・ベニート(他)

映画『鯨の骨』の感想

「自分はリアルな存在だ、という事実への諦念と希望」

 

注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。

 

詩的でありながらも、どこか寂しく不穏でもあるタイトルの意味は、映画の冒頭で開示される。

深海では死んだ鯨の骨の周囲には微細な生物が集まり、ひっそりと人知れぬ生態系が構成されているそうなのだ。

 

結婚を間近に控えた婚約者に二股が発覚し、意気消沈している間宮(落合モトキ)は、同僚の勧めではじめたマッチングアプリで、ミステリアスな女子高生(あの)と出会う。流れから間宮の部屋へとやってきた二人。だが、間宮がシャワーを浴びている間に彼女は唐突に服毒自殺を遂げてしまう。どう考えてもヤバい事態だとうろたえた間宮は、彼女の死体を山中に遺棄しようとたくらむが、穴を掘っている最中に今度は死体が忽然と消失する。

釈然としない想いを抱えながらも日常に戻った間宮だったが、カルト的な人気を誇るAR(拡張現実)アプリ〈ミミ〉で、半ばアイドル的に信奉者を集める〈明日香〉が、消えた女子高生と瓜二つだったことを知って、仮想世界に彼女が残した足跡を追い求めはじめる。

 

なんと言っても本作の白眉は〈ミミ〉という拡張現実アプリの描写にある。

投稿者が任意の土地で自分を写した動画をアップロードすると(作中ではこの行為を「穴に埋める」と呼ぶ)、同じアプリをインストールした他者もその場所へ行けば(穴に潜れば)、まるで目の前に投稿者が存在するかのように、現実の上に重ねられた対象の動画を再生することが可能になるという仕組みだ。作中では、明日香のファンたちが彼女の動向を知るために、新たな〈穴〉の探索を、まるでRPGかなにかのように楽しんでいる様子が描かれる。

現実世界のうえに、幾層にも折り重なって多数の見えないコミュニティが存在するが、その実像はネットを介してつながった限られた人々にしか見えないという状況は、ARという完全実装されたとはいいがたい技術を通して描かれてはいるが、発信者の承認欲求と受信者の共感・帰属欲求を両輪にして成立する、2023年のネット社会の鮮烈な可視化に他ならない。

 

主人公間宮の明日香を探す彷徨は、〈運命の女〉を追い求める系のハードボイルド/スリラーとして鉄板のジャンル的な面白さを維持しているが、なによりも着目すべきはその過程で出会う明日香の狂的な信奉者(宇野祥平)と主人公とのモチベーションの差異だ。信奉者が明日香の〈穴〉を探すことにだけ喜びを見出しているのに対して、間宮を駆動するのは、あくまでもリアルの明日香に対するこだわりが生み出した、〈彼女はいったい何者なのか〉という謎なのだ。

 

結論から言うと、その謎には作中で100%完璧な正解が用意されている。けれども、彼女がどういう人間で、なにを求めていて、これまでの行動の背景にはどんな渇望があったのかは、最後まで謎のままだ。なぜならば、主人公である間宮がそれを知るのは(あるいは知らずに終わるのは)、リアルの明日香と出会ったことによってはじまる別の物語にゆだねられているからであり、そういう意味でも本作は、近未来的なテクノロジーをフックとして描かれた、しごく古典的なボーイ・ミーツ・ガールであり、ヒロイン自身がより能動的という意味で、ガール・ミーツ・ボーイの物語なのだ。

 

物語の落とし所とその瞬間の主人公たちの表情を観れば、本作は一見するとバーチャルへの懐疑とリアルの肯定という、それ自体が古典的な人間観に基づいたものであるとも読める。

けれども私はむしろ、どんなにコミュニケーションの形が変化しようと、どんなに仮想が現実を浸食しようと、それでも〈自分〉という魂を収める器はリアルな肉体以外になく、どこまでいっても現実を捨て去ることはできないし、リアルな肉体の空虚さはリアルな接触でしか埋めることができないという事実に対する諦念のような感情を強く感じた。

 

だからこそ、容易には埋まらない空虚さを満たす代替物としてのバーチャルは、これから先も決してすたれることはないばかりか、手を変え品を変え、新たな形で現れ続け、人々に支持されていくはずだという逆説がそこには存在する。

その事実を端的に表すのが、鯨の骨に群れ集まる深海の生物のように、新たなアプリが生み出した関係性に吸い寄せられる人々を、まるで潜水艇の窓から観察するように写したラストシーンなのだろう。

 

結局のところ観客にゆだねられているは、作中のなにがしかの謎などではなく、その事実を希望として受け取るのか、絶望として受け取るのか、という二者択一であり、そういう意味でも本作は、いまやネット社会とニアリーイコールである2023年の〈世界〉の姿を、きわめて正確に物語化した作品であるともいえよう。

 

作品情報

タイトル:鯨の骨

2023年製作/88分/G/日本
劇場公開日:2023年10月13日

 

監督:大江崇允

脚本:大江崇允/菊池開人

撮影:米倉伸

照明:高井大樹

録音:阪口和

音楽:渡邊琢磨

出演:落合モトキ/あの/宇野祥平(他)

 

映画『まなみ100%』の感想

「若さは馬鹿さの言い換えだから」

注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。

 

 エンタメ系の若い表現者が犯しがちな過ちの一つに、ほんの数年前の出来事にすぎない自分の青春時代の経験を、そのまま作品に反映させてしまうというパターンがある。

 本人にとってはすこぶるつきに面白い体験であったとしても、それは他ならぬ当事者だけが記憶の再現を通して体感できる面白さであって、きちんとしたフィクションとして構築せずに披露したところで、他人様からみれば平凡極まりない「ありがちな話」にしかならないという現実が、高い障壁として立ちふさがるからだ。

 とりわけ、その手の作品が男性監督による映画である場合には要注意だ。かつて自分が憧れた女性を脳内補正込みで現実化したかのような、見目麗しい新進女優がヒロインを演じることで、スクリーンに彼女さえ写っていれば俺は大満足みたいな代物が出来上がる結果が待っている。

 そんな代物が木戸銭もらって公開する見世物として機能するには、大林宜彦クラスの飛びぬけた異能が必要とされるわけで、かくして女の子の名前をそのままタイトルにすえた類のインディーズ邦画は地雷だという経験値が、観客の方にも蓄積されていくわけだ。

 

 というわけで『まなみ100%』である。

 公式サイトのイントロダクションによれば「実話に基づく10年間の愛と青春のクロニクル」ということで、1994年生まれの若き俊英・川北ゆめき監督が、自分勝手に青春そのもののメタファーの如く祭り上げた〈まなみちゃん〉と過ごした過去を回想していくという体の作品である。第一印象を素直に語れば、前述の地雷コースそのものだ。

 

 結論から言ってしまうと、にもかかわらず本作は、単なるノスタルジーではくくりきれない現在進行形の群像喜劇として、たいそう素晴らしい青春映画になりおおせている。

 なぜならば本作、監督自身をモデルにした分身ともいうべきキャラクターを主人公としながらも、どこまでも客観的に突き放した〈物語の人物〉として語りとおすことに成功しているからだ。

 主人公の「ボク」は、永遠の想い人たるまなみちゃんという存在がいながら、持ち前の器用さと口先のうまさを駆使して、気軽なガールフレンドは絶やしたことのない軽薄男として描かれている。ただ単にちゃらんぽらんなだけではなく、自尊心だけは抜きんでて高いがゆえに、自らが傷つくことに耐えられず、余計に不誠実な振る舞いを繰り返してしまうという、およそ観客の共感を得難い人物なのだ。

 ところが物語は、この主人公をどこまでも距離を置いて描写しているがゆえに、周囲の友人たちが次々と人生の新たなステージへと進む様子を横目で見ながら、自分自身も対外的には映画監督になるという成功を手にしつつも、本質的には全く変わることなく、いつまでも青春期の残像に囚われ続ける彼の姿が、しだいに愛おしくさえ感じられてくるのだ。

 

 本作にそれだけの客観性をもたらした功績は、いまおかしんじを脚本に担ぎ出したことにあるはずだ。パンフを読むと、もともとは相当に香ばしい代物だった監督の手になる「原作」を見事にブラッシュアップして、本人さえも気づいていなかった新たな視点さえを導入した過程が知れて興味深い。

 若い監督の原初的な創作衝動まかせにするのではなく、物語とダイアログの屋台骨に大ベテランの采配が加わったことで、核となる個人的な体験から普遍に通じる要素のみが上手に取捨選択された。それゆえに、本作は多様な観客の鑑賞に耐え得る広い間口と深い奥行きを獲得できたのだ。

 けれども私が言いたいのは、いまおかの仕事だけが素晴らしいという結論ではない。なによりも重要な成功要因は、他ならない自分自身の青春時代を描いた作品の脚本に、本来ならば絶対に関与などさせたくないであろう他人(その道の偉大な先達)の手を借りることを良しとした、若き監督のバランス感覚にこそあるのだ。

 

 さしずめ本作のラストシーンは、その美点が集約された一番の見どころといえるだろう。

 まなみちゃんの結婚を機にようやく主人公は青春を卒業することができた、という物語の落としどころをすっかり裏切って、実は主人公はまったくまなみちゃんを思い切れてはいないのに、ただひとり自分だけがその事実を自覚していない。というシーンを撮影している彼のモデルになった監督自身も、映画としてはその構造を理解しながら、実は青春と決別する気などさらさらない、という眩暈のするほど虚実いりまじるレイヤーの錯綜ぶりは、個人の想いが集団の成果としてでしか結実できない映画というメディアだからこそ実現した、奇跡的瞬間に他あるまい。

 

作品情報

タイトル:まなみ100%

2023年製作/101分/G/日本
劇場公開日:2023年9月29日

 

監督:川北ゆめき

脚本:いまおかしんじ

撮影:近藤実佐輝

照明:ユイカミレイ

録音:篠崎有矢

音楽:大槻美奈

出演:青木柚/中村守里伊藤万理華(他)