映画『まなみ100%』の感想
「若さは馬鹿さの言い換えだから」
注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。
エンタメ系の若い表現者が犯しがちな過ちの一つに、ほんの数年前の出来事にすぎない自分の青春時代の経験を、そのまま作品に反映させてしまうというパターンがある。
本人にとってはすこぶるつきに面白い体験であったとしても、それは他ならぬ当事者だけが記憶の再現を通して体感できる面白さであって、きちんとしたフィクションとして構築せずに披露したところで、他人様からみれば平凡極まりない「ありがちな話」にしかならないという現実が、高い障壁として立ちふさがるからだ。
とりわけ、その手の作品が男性監督による映画である場合には要注意だ。かつて自分が憧れた女性を脳内補正込みで現実化したかのような、見目麗しい新進女優がヒロインを演じることで、スクリーンに彼女さえ写っていれば俺は大満足みたいな代物が出来上がる結果が待っている。
そんな代物が木戸銭もらって公開する見世物として機能するには、大林宜彦クラスの飛びぬけた異能が必要とされるわけで、かくして女の子の名前をそのままタイトルにすえた類のインディーズ邦画は地雷だという経験値が、観客の方にも蓄積されていくわけだ。
というわけで『まなみ100%』である。
公式サイトのイントロダクションによれば「実話に基づく10年間の愛と青春のクロニクル」ということで、1994年生まれの若き俊英・川北ゆめき監督が、自分勝手に青春そのもののメタファーの如く祭り上げた〈まなみちゃん〉と過ごした過去を回想していくという体の作品である。第一印象を素直に語れば、前述の地雷コースそのものだ。
結論から言ってしまうと、にもかかわらず本作は、単なるノスタルジーではくくりきれない現在進行形の群像喜劇として、たいそう素晴らしい青春映画になりおおせている。
なぜならば本作、監督自身をモデルにした分身ともいうべきキャラクターを主人公としながらも、どこまでも客観的に突き放した〈物語の人物〉として語りとおすことに成功しているからだ。
主人公の「ボク」は、永遠の想い人たるまなみちゃんという存在がいながら、持ち前の器用さと口先のうまさを駆使して、気軽なガールフレンドは絶やしたことのない軽薄男として描かれている。ただ単にちゃらんぽらんなだけではなく、自尊心だけは抜きんでて高いがゆえに、自らが傷つくことに耐えられず、余計に不誠実な振る舞いを繰り返してしまうという、およそ観客の共感を得難い人物なのだ。
ところが物語は、この主人公をどこまでも距離を置いて描写しているがゆえに、周囲の友人たちが次々と人生の新たなステージへと進む様子を横目で見ながら、自分自身も対外的には映画監督になるという成功を手にしつつも、本質的には全く変わることなく、いつまでも青春期の残像に囚われ続ける彼の姿が、しだいに愛おしくさえ感じられてくるのだ。
本作にそれだけの客観性をもたらした功績は、いまおかしんじを脚本に担ぎ出したことにあるはずだ。パンフを読むと、もともとは相当に香ばしい代物だった監督の手になる「原作」を見事にブラッシュアップして、本人さえも気づいていなかった新たな視点さえを導入した過程が知れて興味深い。
若い監督の原初的な創作衝動まかせにするのではなく、物語とダイアログの屋台骨に大ベテランの采配が加わったことで、核となる個人的な体験から普遍に通じる要素のみが上手に取捨選択された。それゆえに、本作は多様な観客の鑑賞に耐え得る広い間口と深い奥行きを獲得できたのだ。
けれども私が言いたいのは、いまおかの仕事だけが素晴らしいという結論ではない。なによりも重要な成功要因は、他ならない自分自身の青春時代を描いた作品の脚本に、本来ならば絶対に関与などさせたくないであろう他人(その道の偉大な先達)の手を借りることを良しとした、若き監督のバランス感覚にこそあるのだ。
さしずめ本作のラストシーンは、その美点が集約された一番の見どころといえるだろう。
まなみちゃんの結婚を機にようやく主人公は青春を卒業することができた、という物語の落としどころをすっかり裏切って、実は主人公はまったくまなみちゃんを思い切れてはいないのに、ただひとり自分だけがその事実を自覚していない。というシーンを撮影している彼のモデルになった監督自身も、映画としてはその構造を理解しながら、実は青春と決別する気などさらさらない、という眩暈のするほど虚実いりまじるレイヤーの錯綜ぶりは、個人の想いが集団の成果としてでしか結実できない映画というメディアだからこそ実現した、奇跡的瞬間に他あるまい。
作品情報
タイトル:まなみ100%
2023年製作/101分/G/日本
劇場公開日:2023年9月29日
監督:川北ゆめき
脚本:いまおかしんじ
撮影:近藤実佐輝
照明:ユイカミレイ
録音:篠崎有矢
音楽:大槻美奈