映画『ゴジラ-1.0』の感想
「焼野原の二重露光」
注:観客の興趣をそぐことがないと思われる範囲で、作品の内容に言及しています。
野村芳太郎の『左ききの狙撃者・東京湾』を観た時に、狙撃事件の現場検証にやってきた刑事たちが、妙に手慣れた調子で狙撃手の姿勢や弾道を口々に分析する様子を見て、どうして日本の警察官がこんなに銃器に詳しいのだろう? と不審に思ったことがあった。
よくよく考えてみれば、昭和三十年代に働き盛りだった彼らは、例外なく戦場に送られて三八式なり九九式なりといった旧帝国陸軍の小銃を担いでいたわけだから、これは不自然どころか当然の描写だったのだ。
ことほどさように、社会において大前提として共有されている空気感ほど、えてしてフィクションでは省略されてしまうものであり、後からやってきた観客にとっては、意味不明のままスルーされてしまうというケースも少なくない。
1954年公開の元祖『ゴジラ』にもその顕著な一例がある。志村喬演じる山根博士の妻の不在の理由だ。現代の感覚からすれば、なんらかのドラマ的な必要性があり、病死だの事故死だのと理由が説明されてしかるべきところだが、あえて作中で一切言及されないのは、昭和二十九年のリアルタイム的にいうならば、それが戦争のせいであることは誰の目にも明白だったからだろう。
本作における最大のギミックである、舞台を一作目以前の時間軸に持ってきたという工夫は、現代における怪獣災害のシミュレーションは『シン・ゴジラ』でやりつくしてしまったという興行的な判断によるものではあろうが、公開から七十年が経過して、すでに社会の共通認識としては機能しなくなったシリーズのルーツと、当時の観客が感じた〈気分〉を補完して、次の世代へと託していくという意味では、これ以上ないほど素晴らしい選択であったことは間違いない。
とにもかくにも、終戦直後の東京の惨状を活写したビジュアルイメージが素晴らしい。
通常、映像作品における〈終戦直後〉というのは、ある程度市民生活が安定をみせはじめた昭和22~23年程度を指していることが多いのだが、真の意味での直後たる昭和20年後半、つまりは爆撃によって一面の焼け野原と化したまま、がれきの撤去さえも進まず放置された廃墟の列を、こんなにも鮮烈に再現できたのは、日本最強を誇る白組のVFX技術以上に、丹念な調査に基づいた執念のたまものといえるだろう。
当時の観客たちにとって、ゴジラによる都市破壊はスクリーンの中のミニチュアが壊される情景ではなく、ほんの数年前に自分たちが体験した空襲による地獄絵図を露骨に想起させるものであったという事実を、本作によってはじめて我が事として理解できるようになった若い世代の観客も少なくないはずだ。
「初代ゴジラは怖かった」という紋切り型は、単なる映像的なニュアンスの話ではなく、当時の観客にとってそれが、戦争の記憶をそのまま蘇らせるものだったからに他ならない。
一方で「ゴジラは核戦争の脅威を描いたものだ」という視点も良く言われることだが、日本が唯一の被爆国だという以前に、もしも核兵器を使用した第三次世界大戦が勃発したら、ようやく復興をとげつつある自分たちの住む町が、またしても戦時中と同様の瓦礫の山になってしまうという身の丈の恐怖の方が、庶民にとっては何倍も身近で深刻に感じられたはずだ。
忘れることの出来ない悲劇的な過去=空襲の記憶。
絶対にあってはならない未来=核兵器によるさらに重篤なその再現。
ゴジラとは、巨大生物による都市破壊という絵空事によって、時間を超えて焼野原に重なる二重の地獄のイメージを具現化したものであり、それゆえに当時の日本人にとっては、深刻な恐怖の対象になりえたのだ。
その事実を21世紀にありありと蘇らせたという一事をとっても、本作がつくられた意義はあるといえよう。
巷で物議をかもしている本作のラストも、一見するとドラマとしては蛇足のようにも思えるが、ゴジラの本質を継承していくという側面から考えれば、その意図は明らかだ。
一作目よりも前の時間軸を描いた物語では、焼野原に重なる未来の光景、つまりは核戦争と放射能の恐怖は十分に描くことはできない。
そのことに自覚的な製作者であれば、単なるハッピーエンドで幕を引くことなどできるはずがないのだ。
作品情報
タイトル:ゴジラ-1.0
2023年製作/125分/G/日本
劇場公開日:2023年11月3日
監督:山崎貴
脚本:山崎貴
撮影:柴崎幸三
照明:上田なりゆき
録音:竹内久史